暑いです。大変バタバタしております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
三沢さんの死からずいぶんと時間が経ってしまい、しかもその間にぼくの周辺でも中国や日本においてもいろいろな出来事があり、三沢さんの死にちなんだ文を書き終えるタイミングを逃してしまいました。
前回までで言いたかったのは、三沢さんの死がアクシデントというよりも、そうなることが運命付けられていたかのように思えてしまったことです。たとえ先月亡くなってなくとも今月かあるいは来月には亡くなっていたのではないか、といったふうに。そう思えてしまうのが最後の試合の登場シーンにおける、どことなくけだるく、体調が悪そうで、できることならもっとラクな試合をしたいのにそういうわけにもいかない、とでも言いたげな表情でした。もともと三沢さんは常々リングでけだるい表情をしているのですが、そういうことを考慮したとしても辛そうに見えてしまったのでした。
そんな時、馬場さんの記憶が浮かんだのは、三沢さんがノアを立ち上げた時に口にした「馬場さんの遺志」がいったい何を指していたかという疑問からでした。もし馬場さんの遺志という言葉が本心であったとしたら、それはストロングスタイル・異種格闘技路線と一線を画した王道プロレスなのではないかと思いますが、王道プロレスとはかたや激しい闘いあり、かたや馬場さんの晩年のような楽しい前座試合ありで、もし三沢さんが本当にコンディションが悪ければ楽しい前座試合をすることができなかったのか、との思いが生じたのでした。だとしたら断言はできませんが、プロレスラーとしても人間としても三沢さんはもっと長生きできたのではないかと。ただ三沢さんの転身は実際には難しいと思われ、そこに運命的なものを感じてしまいました。
馬場さんの晩年の16文キックに永源さんが気絶する、というシーンはとても真似できるものではありません。あれが成り立つのは、かなり長い年月、少なくともぼくがプロレスを見始めた70年代前半から20年近くも「16文キックはひょっとしたら痛くないのではないか」との疑問を頭に抱きつつ馬場さんの死闘を食い入るように見つめた蓄積があったからでした。今、そんなことが成立するのか?うすうすショーだとわかりつつ、なおかつそれがゴールデンタイムの真剣勝負として成立してしまうこと。そこに昭和という時代のよくも悪くも持つおおらかさと、平成の世知辛さが見えてしまい、死に向かって真剣勝負を続けた三沢さんが世知辛い平成の象徴にも思えたのでした。
そう考えると、他人事ではまったくなかったのです。高校でも大学でもテレビ業界でも今の仕事でも、「あの時代はよかった」は渦巻いていました。テレビ業界にいた時に特に感じたことですが、主に年長者の放つそんな与太話を耳にしつつ年長者の企画の実現のために働かなければならないことは苦痛でした。
会社に入社すると、目の前に係長、課長、次長、部長がいて、それはその新入社員のそれぞれ何年後かを表しているととれなくもありません。高度成長の頃は自分が課長の頃は今の課長より暮らしぶりや仕事の充実が得られると思えたかもしれません。ぼくが入社した頃は、そんな夢物語はとうになく、課長の姿は16年か17年後かの自分の等身大にほかなりませんでした。ぼくやぼくの一部の友人はこのことにシラケちゃったわけですが、等身大でしかなかったことさえもが今となっては幻想にほかならず、今入社すれば課長や部長は十年以上先の自分よりも恵まれていた人たち、なのかもしれないし、そもそも新入社員として入社することからして難しくなってきたのですから、ただただ世知辛さを感じさせます。
三沢さんの死からずいぶん脱線したようではありますが、そういうことを思い出させる死でもあったのです。いったんこれで終わりにします。遅ればせながらご冥福をお祈り申し上げます。