知人・Kから広告系の仕事の話があって六本木の知人・Hに譲る。譲ると言っても成り行き上多少顔を出さなくてはならない。こういった労働は比較的多い。
起業した初老のHに会うのは3年ぶり。夜、彼と赤坂見附の今ふう居酒屋で過ごす。二人で焼酎一本程度だったが、久しぶりに会う人との飲みは酔いが早い。今日土曜日に飲みの約束が2件入っているのでペースを落とす。彼の白髪の数から自分が歳を取ったことも知る。
帰りがけ友人・Lのマッサージ店に寄ろうとするが、Lはインフルエンザで寝込んでいてパス。終電で帰宅しさっさと寝る。夜寝て朝起きるリズムになったことで日記を書く気になる。
赤坂六本木界隈に行く用が多いが、中国人がわりとこの地に集中してきたこととも関係するのだろう。今のぼくには中国も日本もなくただたんに外を歩いているとしか思わない。海外紀行などを読み、出だしで飛行機や船が出てくると違和感をおぼえるようになった。そうした描写はぼくにとって書き手の脳の中に壁が設定されていることを伝えるだけで、そのことがかえって魅力を持たす場合もあるがそうでない場合が多い。無自覚な、さらに言えば無自覚にありきたりな効果を期待する心情が伝わると先を読む気がしなくなる。
文章を読む時に書き手が誰の文章の影響を受けているかを意識することがある。読み進めるにしたがい、影響を受けたと思われる人物を書き手が乗り越えようとする気概があるかないかが読み取れ、そこにオリジナリティー、つまり読む価値があるかを見る。この気概は当人が思うか否かよりもっと潜在的な次元のもので、書いてみて初めてわかる、といった類の気概であろう。そのことに無自覚な、影響というよりは没入している文章だと気付くと、その時点でタカをくくってしまい、あとはそれがグルメガイドでも論説文でも小説でも、情報として読む。400ページの本ならば2時間で読み終えられるが、書き手に対して失礼なことだとは思わない。書く方も既存の言語コードに安心して寄りかかり知識を混入しただけなのだろうから。書くことが思想と同時に行動であるということはおそらくこうしたこととも関係があると思われる。紙媒体であるかネットであるか、あるいはプロか素人か、ということとは関係がないと思う。