明け方、静かな部屋の外で大雨の音がしたので、ベランダに出て、しばらく見入った。
打ちつけるような雨に見とれるときがある。天から垂直に、有無を言わさぬ勢いで注ぐ雨を見、あるいはその音を聞いているのか、ともかく、その前で立ち尽くしていると、アジアのひびきのようで、べつにアジアだけにこうした雨があるわけでなく、またアジアでもほとんど雨のふらぬところもあるのだけど、それでもアジア的に思えてしまうのはいったいなぜだろうか。
それが絶対に逆らえないもの、すなわち天命を喚起させるからなのか。
それとも、忍従のアジア、なのか。
大雨、といえば、タイの農家に数ヶ月間居候して教師をしていたときに、きまって夕方に一時間ほどのスコールが来た。傘など意味がないほどに激しく、土砂の道は水浸しになり、それでいて一時間経てば何事もなかったように止むから、災害が起こるわけでもなく、ぼくも周囲の人もただいる場所で待機しているだけだった。特に急ぎの用があるわけでもなく、雨を眺めることは退屈しない。以来、土砂降りの雨に出くわすと、仕事中だろうが移動中だろうが黙って止むまで待つ癖がある。そして、いろいろなことを空想する。
ところで、
恋人と外にいる時にかかる雨に出くわした場合、傘をさして歩くようなデートはいかがなものかと思う。よく大雨情報のテレビニュースを見ると、傘をさしてちじこまりながら歩くカップルを見かけるが、いかにちじこまろうが体半分がびしょ濡れになっているのに何を急ぎ何を守るのか。むしろ天井のある場所でじっと待つか、さもなくば手をつなぎ、大雨の中をダッシュするのがよい。後のことなどケセラセラ、でね。