作業に追われるうちにまもなく夏も過ぎ去ろうと空が語る。かくなる思いをもう何年続けたか。夏休みが終わるのを惜しんだ小中学時代、恋心の感傷をそれに結びつけた高校時代、何もしないままに過ぎ去ることを嘆いた大学時代、多忙であることに何の意味があるのかと詰問した会社員時代と、思いの思い方はさまざまだが、思っていること自体に変わりはない。今ならばさしずめ、ぼくが今あるようなぼくでいいのだろうか、なんとなくいいと思うし、どことなくの不安やとめどない悔恨や不満もあり、わかりきらぬままに時だけが過ぎることへの中年男の感傷、といったところか。
昨日21年ぶりに、21年前の8月に高校の同級生とコーヒーを飲みつつ交わした会話がよみがえってきた。記憶が往時のもののそのままでないことはわかりつつも、未熟さも相反する心境も変えずに、そのままの形で書いておこうと思う。場所は小田急線で藤沢の次の藤沢本町、という閑静な駅近くのロイヤルホスト。たぶん8月のこの頃だった。以下、ぼくをA、同級生をOとする。
O「そういえば、『太陽の季節』の著者はうちの高校の卒業生じゃないか」
A「ろくなやつがいないな」
O「まったくだ」
A「ろくな高校じゃないな」
O「ただそんなことを言ってみても、やはり奴は奴ですごいところがあると認めざるを得んのよ」
A「だとしたら、やつらが敷いたレールで砂浜ごっこをする俺たちは、さしずめ『月の季節』といったところか」
O「月がただただ光を受ける存在だと言いたいのなら、きっとそれはそうだろうね」
A「まったくつまらねえ」