似た趣向のことを何度も書いているが、書いても書いても世の中が変わらないのでこちらも書き続けることにしよう。
京都で塾講師が小6女児を刺殺するという出来事があったが、犯人の青年がどのような思いでどのような環境にいたか、ということはどうでもいいことだと思う。おそらく彼にとって愛憎の対象であったその女児の存在は彼を彼らしくつなぎとめる上で不都合な存在だったに違いなく、不都合だから何をやってもいいわけではないが、そのような発想をする人(他者を受け入れられない人)が多くなった今となっては、かかる発想で行動に移る人がどうあるべきかを考える必要がある。
女性、それも小6などに暴力を振るう気は起きないが、どうしても我慢がならなければ殴ればいいのではないか、と思う。殴って頬を骨折させでもしたらそれはそれで一大事だが、相手を殺すことに較べればそれでも小事に過ぎず、問題は彼にとって頬を骨折させることも殺すことも同じで、いずれも極限だったのではないか、ということだ。
そして、社会の側も殺人だろうが傷害だろうが痴漢だろうが同じような扱いをしている気がしてならず、要は何かをすれば「それでそいつは終わった」空気が充満しているのだろう。
暴力を奨励するわけではないが、殺人が暴力よりももっとしてはならないことだとの感覚が麻痺してはいまいか。そして、「いえいえ暴力も同じ、絶対にダメです」と頭ごなしに否定する硬直した思考が麻痺をいっそう進行させる。犯人の青年の不幸はその判別がつかないほどに追いつめられていたことと、殺すことと殴ることの差がわからなかったことだと言え、対策と言えば、それをそうなくさせる、別の言い方をすれば「キレ」るという状態に対して上手な「キレ」方を習得することであって、その女児を避けて無難に振舞うことのできるお利口さんを盲目的に奨励することではけっしてないのだと思う(註)。
(註)・・・とは言え、女児と結果としてうまくやれなかったことはこの青年の教師としての未熟さを示しているが、かかる場合にそこまでを彼に求めるのは無理だから今回の書き込みでは最低レベルでの振る舞いの倫理について言ったにすぎない。本来であれば暴力も何もなく乗り切ることが大切なことは言うまでもない。