少なくとも「中国」と言われる土地について言えば、そこは特殊でもなんでもないし、そこについて書くこともけっして特殊ではない。もちろん、そこならではの特殊さや山積する問題はやまほどあるが、あくまでそうした次元での特殊さに過ぎず、よその地でも見られるものに違いない。
ところが、今の生活をしていると感じるが、中国、というのが何か途方もなく異質なものだと受け取られ(註0)、そうしたものの恩恵にぼくがあずかっている一方で、不本意な方向に流れざるを得ないこともたびたび実感する。
特殊視することは3つの意味で物事を変な方向に導いてしまう・・・・つまり「中国」という専門分野ができてしまい、そこに入り込むことや脱けたり別分野にまたがることが難しくなること(註1)、次に特殊であるから自国や自分を振り返る頭脳とは全く別の頭脳をあえて使おうとすること(註2)、そして3番目に、第2の点からくる「中国」に対する誤解と、「中国の言いなりになるな」のような、自主放棄から始まった「自主性」をめぐるやりとりであろう(註3)。
ぼくにとり、そこを書くことは、以上の3つのいずれにも当てはまらず、なおかつ確実な能動を探すことにほかならない。
(註0)・・・特殊さをあえて挙げるならば中華思想だろうが、もし中華思想のいわゆる覇権主義的なものに異議を唱えるのであれば、なおさらそれを特殊視することがかえって中華思想を強めていくことに敏感であるべきだと思う。そして、中国共産党と中国を同一視する発想にも注意したい。もし中国共産党に絶望的な問題があるならば、中国共産党の崩壊を考えるべきであって、あの土地の崩壊ではないはずだ。
(註1)・・・「麻生さんは中国です」という言い方をたまにされるが、それは「中国のことを専門にやっている」という意味なのだろう。ぼくは中国を専門にしている自覚など全くないが、それはまだよしとしても、このような言い回しが成立するところに違和感をおぼえざるを得ない。
(註2)・・・たとえば、下の書き込みの「殺すことと殴ることの差」というようなテーマを考える時と、中国の時事ネタを考える時で、まるで連関がない人がいるのではないかと思うが、そういうことを言っている。
(註3)・・・最も問題にすべきなのは、初めに何もかも中国に合わせようとして、堪忍袋の緒が切れたかのように突如キレてしまうような思考の順番であろう。そして、このような人の中には初めからぼくを「親中共」と決め付けて掛かってきて、さらには執拗に「シナ」などの言葉を多用しつつぼくの表情をうかがおうとする人がいたりもする。何よりもぼくという個人を個人とみなしていないところに問題があるとは、当人も気付いていないのだが、それは当人が個人を自覚していないからに違いない。