昨晩はH氏と南阿佐ヶ谷のチェーン居酒屋で夜を過ごす。ある件でぼくに過ちがあり、当事者へのお詫びに一応関係者でもある彼が付き添ってきた形で、恐縮する。
フリーの編集者であるH氏はぼくと比較的近いポジションにおり、これまで何度も仕事をしてきたから会う回数はさほど多くないものの気心の通じる部分がある。同年代ということもあり世代の話などもした。
帰りは丸の内線、銀座線と乗り継ぐ。世代の話などをした後で1人になるとぼくは常々以下のようなぼんやりとしたイメージを思い浮かべる。
たとえば会社の中に55歳の上司、35歳の自分、22歳の後輩がいたとしよう。55歳の上司は常々35歳の自分に文句を言い、自分も55歳の上司が嫌いである。だが、55歳の上司もやがて定年になるからそうなったら自分の好きなようにできるだろうと考え、おとなしく我慢しながら働いている。
一方、35歳の自分は22歳の後輩とも合わない。後輩の若さと波長が合わないのではなく、22歳の後輩は55歳の上司を信奉しており、要は後輩の55歳じみたところが合わないのだ。そして、多少破天荒なところもある22歳の後輩の未熟さも55歳の上司は大目に見て、可愛がっている。35歳の自分は55歳の上司の定年後を想い描き、「そうなったらあんな奴には冷や飯を食わしてやる」などと想像している。
しかし、そうこうして55歳の上司がいざ定年を迎えた時に、上司は22歳の後輩を35歳の自分の上のポストに付けてしまう。いわば自分は弾き出されてしまった格好だ。その時点ですでに22歳の後輩は55歳の上司と瓜二つの発想・仕事ぶりを呈することになり、結局のところ55歳の上司に仕えることが一生続いてしまうことになる。
以上のような全くの架空の話をぼくはしばしば想いうかべる。何をしても何も反応してもらえず、何もしなければ歳とともにいずれは弾き出される。だとしたら初めから弾き出されておいて勝手にやっていこう、こうした人生観が無意識的には高校時代からぼくにはあるように思う。そして、最近は、弾き出された者同士がいかに力に形になるかばかりを考え始めている。