昨日は昼過ぎまでに作業を済ませ、16時半より神保町のさぼうるで後輩である友人と会う。少なくともぼくの前で飾り立てをしないその人は伊勢正三の歌ではないが毎年春が来るごとに輝いているのがわかる。19時からは春日駅付近の鳥兆で、世話になっている編集者が慰労会を開いてくれ、かなり飲んだ。この出版社は金銭的に苦しいはずだが、それでもできうる限りの歓待をしてくれ、ぼくとしては高級料亭でもてなしを受ける(今までにないから想像だが)ぐらいにとても愉しかった。その編集者はけっして大事壮語を言わないしかと言って変にへりくだったりするわけでもなく、今あるままの状態で純粋に中国に対する関心を語ってくる自然体の人だ。
死体が重いと言われるのは体の力が抜けるからで、変にリキんだり、萎んでしまったりすると、力が弱くもなるしかえって小さく見えてしまう。小さくても弱くても醜くても知識が不足していても一人前でなくとも、それを変に意識したり飾ったりするよりはそれをそのままさらけ出す方がかえってよい。
等身大であること。ところで世の中にはそういった等身大でいられない人も多数存在し、かく言うぼくがそうだ。常にリキんだり、努めて明るくしようとしたり、自分に何かと注釈を加えたがる。そんなことでは駄目だと思いつつも何十年もそのように振舞えず、この日会った人たちがとても眩しく見える。そんなわけで埒が明かず、近ごろは不自然の自然、つまり等身大でいられぬ自分の等身大ということを意識するようになっている。うざったければうざったいのをなくすのでなしに、うざったいのをいかに輝かせるか、といったふうに。