『ツアー1989』(中島京子 集英社 2006,5)を読む。おもしろい小説だ。
80年代の終わりから90年代頭に催された「迷子ツアー」は、参加者の一人が帰国前に忽然と消えてしまう「奇妙な感覚」をツアー旅行者に持たせるために意図されたという。通常「迷子」は数日遅れで日本に帰るが、
1989年に香港で催されたツアーで、本当に帰らなくなった19歳の青年がいた。痩せた地味男で「ときどき自分が消えてしまいそうな気がするんです」などと話し、不気味に思われたその青年が帰国前日に忽然といなくなった時、そのことを深く考えた人は誰もいなかった。
そして、彼に関する記憶はほとんどなくなったまま、21世紀へと時は経つ。
2004年、20歳のノンフィクションライター志望の若者が香港で「その青年」の失踪当時に綴った日本の恋人(片思い?)宛ての手紙らしきものを手にしたところからストーリーが展開される。当時の添乗員、ツアー客の会社員など、全く記憶がないようでいつつ、
何か大切なものを置き去りにしてしまった、なんとなくとした記憶の残骸があり、必死で過去と向き合う。そして、「迷子」の青年が
吉田超人の名で、中国共産党に立ち向かう「スゲー奴」として、一部のアジア旅行者からカリスマ扱いされていることを20歳の青年は知り、彼の潜伏先であるバンコクに向かう。
置き去りにすること、消えるような存在感の希薄な人間がアジアにとどまること、というのは確かに80年代の終末頃の重要な気分にほかならなかった。言葉にしづらいあの時代の空気を「迷子」という虚構に置き換えた出来栄えに対して賛辞を送りたいと思う。一昨年の『ジャスミン』(辻原登)や本作など、最近、一昔前から今に至る流れを追ったアジア題材の優れた小説が出ている感があるが、さまざまな要因から大勢が海外に飛び出したあの時代を真摯に語る上でアジアが欠かせないモチーフであることは声を大にして言いたい。
「吉田超人」なる迷子は結局レッテルを貼られただけのただの人であることが判明する。言葉が出ない青年に対して彼は
「君の探している吉田超人なんてものは、ほんとうはどこにもいないんだ」と語る。若者をアジアへ向かわしめる何かとは結局居場所を失うほどに肥大した臆病な自意識やそうした人たちの信じ込みによって作られているのに過ぎないのか。本作への感想と全く関係のない話をすると、ただ、吉田超人を「ほんとうはどこにもいない」で片付けてはいいのか、との思いも残る。香港にとどまり、現地の政治と立ち向かうことそのものはけっして幻想ではなくむしろ現実で、それが幻想にすぎぬのは幻想が現実だからなのだろう。このことは、ぼく自身に問いかけたつもりである。