ばくはしばしば共感だとか共通の心情などという言葉を持ち出しているが、それがどのようなものであるのかを一言で言うのは難しい。一つ一つ例を示していくことしか今はできない。
たとえば
「映画『プロミス(無極)』 パロディー騒ぎの背景」
などは、ひょっとしたら世の中を突き動かす力になりはしまいかと期待している。
リンク元の文章の、分析や意見ではなく、事実だけに注目してもらいたいが、ぼくはこの陳凱歌作品のパロディー事件をしばしば耳にしたが、耳にするたびに聞いたのは陳凱歌作品が
予算が大きいわりにおもしろくなかったことだった。予算が大きく、しかもおもしろくなかった、というところにパロディー事件の本質はあると思われ、このことはけっして陳凱歌のこの作品がどうだったかという偶然性に伴うものではなく、もっと広く社会一般に通じるところがあるもののように思える。だからこそパロディー作品は原作をはるかに凌駕する人気ぶりを見せ、しかも当初告発した陳凱歌が告発を引っ込めざるを得ないほどの騒ぎになったのだ。
ぼくがふだん接する都市の宙ぶらりん層からすれば、彼や張芸謀とはまず第一に既得権益でしかない。そして、既得権益を持たない大多数にとり、既得権益の巨大さは如何ともしがたい感があり、そのことが、たとえば北京の発展熱に通底する一種のシラケ感覚にもなる。2008年北京五輪が近づくにつれ、「中国イズナンバー1」などと狂喜し、あるいは高度成長の中いきいきと輝く市民を連想させる報道が増えるかもしれないが、表れがどうなるにせよ実際はもう少し冷めた感覚であるに違いない。
ところで、このシラケ感覚とは日本にとって二つの相反する意味合いを持ち、それをどう汲み取っていくかによって全く相反する結果を予想させる。日本にとって、既得権益に対するシラケ感覚はけっして無縁のものではなく、むしろ80年代以降ぼくたちが慣れ親しんだものにほかなるまい。だから、中国でたまに頭をのぞかせるこうした出来事に対して、少なくともぼくは、これを理解し、わかろうという気持ちを持ち合わせているし、既得権益、それはたとえば政権・体制という意味での国家や、限りなく近い体質を持つマス企業が巨大化してにっちもさっちも行かない世の中においての、日本と中国の個人がいかに歩んでいくべきかの道程にもなりうるものに違いあるまい。
けれども他方で、日本そのものが既得権益だということも言え、げんにこの件で日本でまず想起されるのは著作権侵害というもう一つの大きな問題の方かもしれないし、また、たとえば日本に対する強硬な意見や強硬な行動に、こうした心情も働きかけているに違いないことは指摘せねばなるまい。
リンク元の文章が背景の分析をしつつ人気の背景となったこうしたシラケ感覚に全く触れられていないように、知っているようで全く知られていないことがあまりにも多い、というのが現状で、まずはこのシラケ感覚をもっと表現する必要があるのではないかと思う。