註・・・下で携帯電話から送った写真がありますが、これは今夏に撮影した箱根大湧谷下湯温泉(強羅から仙石原に抜ける森林道路のポーラ美術館のかなり手前です)の「萬岳楼」という古い宿の内湯です。本館は二階建てで一階部分は写真のものよりやや小ぶりですがほぼ同じ様子の内湯が各部屋に付いています(ぼくは部屋の風呂を使わないので二階に泊まります)。一階が温泉つきの部屋ということもあって共同の内湯は常にガラガラです。仙石原同様の白濁の湯で、レジャー施設が集まる仙石原よりも静かな環境にあり、濁り湯が好きでのんびりしたい人には最適の宿と言えます。食事も満足できました。
19時より新宿の中華レストラン「維新號」で最近中国に関心を寄せるN女史と彼女の部下M氏らと会食。N女史は地位、実力とも備わった仕事人。とは言え性格はざっくばらんな上に繊細で、おまけに愛嬌があり、そうしたことや独特の低くハスキーな声がかわいらしく、けっして美人ではない太目の四十過ぎの人だが二十代に負けないほど若々しく輝いている。
この人と会うのは二度目だが、会うたびに不思議な感覚にとらわれている。常にひき込まれるように、あるいはのみこまれるようにべらべらしゃべってしまうことだ。最初は彼女が仕事上の実力者だからだと思っていたのだが、どうも違うようで、そもそもぼくは立場のある人を前にすると変に対抗したくなるようなところがあるのだが、彼女と一緒にいる時はその逆で、むしろへりくだりたくなってしまう。やはり容姿や仕草が持つ魅力なのだろうと思う。ただし、くどいようだがけっして吉永小百合や夏目雅子というわけではない。
本人は自分を不美人、デブ扱いしているが、かりに本当に不美人だとしても不美人であることも含めて美しい人というのはいるものである。また、別の発想で言えば、歳を取るほど魅力的になる典型の女性だと言えるかもしれない。あるいは男女関係なしの人間的なオーラをぼくが勝手に女性の文脈に置き換えているだけなのかもしれない。
歳を取るほど魅力的と言ったが、ぼくはN女史の若い頃を全然知らないから、若い頃はもっと輝いていた可能性もあるのだろうが、なんとなくそうではない気がするのは、たとえば市原悦子を見てそう思う感覚に近いものがあるのだろう。若い人がもてはやされることは当然でも、他方で老いが魅力になる人もいて、そういう人の魅力は若い美人以上に得がたいものだと、あらためて思ってみたりする。帰りしな、紹興酒の飲みすぎで思考能力の鈍った頭でふとそんなことを考えたりしつつ、地下鉄で帰宅したのは十二時。