今日(8日)発売の「中国語ジャーナル4月号」に、連載『素顔の中国人』第25回「等身大の存在証明」が掲載されています。機会あればご一読ください。
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等身大の存在証明、というのは、たとえば、アートをやることによってアーティストたりうる、ぐらいの意味です。絵を描くから画家だ、と言う表現は当たり前だとも思われますが、はたしてそうでしょうか?
かつてぼくが北京の画家村に通っていた頃には、絵を描く彼らは画家と認識されていませんでした。本当の画家より国際的に認められていても、です。絵を描き、自らを画家だと宣言することではじめて自らが画家なのだと、自分の周囲の狭いコミュニティーの中で認められたにすぎませんでした。当時、画家であると広く認識されるためには、美術学校を出て、しかるべき先生に付き、公けの美術家協会への加入を認められる必要があったのですが、これらのことは直接には絵を描くことではありません。つまり、当時の北京で言えば、絵を描くから画家、が通用しない面があったわけです。
他方、このことが次第次第に(もしくはもとから)日本でも当てはまりつつあるのではないかということをぼくは危惧します。たとえば、ミニコミ雑誌にタダで素晴らしい名文を寄せる人と、商業誌に有料の駄文を寄せる人ではどちらが物書きなのか、半年間アルバイトをし、そのカネで東南アジアに行って現地の知られざるルポを書く人と、新聞社で社長のご機嫌伺いを率先して行なったことで出世した人とではどちらがジャーナリストなのか、絵を描くとか、文章を書くとか、現地を報じるとか、そういった現場の営みの価値がないがしろにされていっているのではないか、と考える時、北京の話は他人事でないと思うわけです。ぼくは北京でアーティストと交わる時によくそんな話を彼らにしていて、彼らの境遇をたんに中国の出来事と割りきらないふうに考えるようになったのですが、そのなんとなくの予感が次第次第に鮮明になっているかのような違和感を抱いてしまうのです。