大分合同新聞という主に大分で読まれている地方紙の読書欄に、ぼくの拙著やぼくのことが触れられていた(11月1日号)。大分県出身ということでなのだが、小学校二年以来神奈川で育ったので必ずしも普通の大分出身者とは違い、また、いろいろと家庭の事情もあって、正確なところ福岡出身なのか大分出身なのかもよくわからない。ただ、神奈川の小学、中学にいた頃も年に二ヶ月は大分で生活していたし、クラスでも自分が大分の人間であることをやたらと自慢し(そのため小学三、四年のぼくのクラスでカボスを知らない人は一人もいなかったはずだ)、九州出身ということでずいぶんと羨ましがられた記憶がある(ぼくが勝手に思い込んでいるだけかもしれないが)。
大分は祖父の思い出が強烈で、夏休みになると真っ先に大分に帰省し、一ヶ月以上もここにいて、祖父に野球を教わることが楽しみだった。野球人としての祖父は戦前は門司鉄道管理局(主力選手に南海の木塚忠助)や満鉄の監督、戦後は社会人野球で名を馳せた別府星野組(エース荒巻淳、主力選手西本幸雄、関口清治、小嶋仁八郎)や大分商業の監督を務めてきて、大分県における野球の普及に貢献した人間だったが(そういう経緯もあって稲尾和久氏は高校時代にうちの実家から高校に通ったりもしていた)、ぼくが子供の頃はすでに一線を退いていて、そこらへんの草野球の指導やお祭りの太鼓叩きなどを熱心にやっていた。短気ではあるが話好きで、電車などに乗っているとそこらへんの人に声を掛けたり掛けられたりしていた。子供好きで、そのくせ大したカネは持っていないから、ぼくや従兄弟など子供をたくさん引き連れてトキワという大分一大きなデパートのファミリー食堂で150円のカレーライスをご馳走することを好んだ。野球を辞めて以来、収入はほとんどなかったはずだが、地元の子供を遊ばせたり、自治会、祭り、高校野球、旧友や教え子の世話で大変忙しい日常を送っていて、子供心にもなぜあんなに働いているのに収入がないのか(と言うよりも働けば働くほど財産が減り、最後は無一文だった)、不思議に思ったりもした。
最近中国のことなどを書いていて日本との比較などを考える時に、頭に思い浮かぶのは真っ先に東京の朝夕の通勤電車の光景などなのだが、すぐに祖父の姿を思い出したりして思いを修正する。生まれ育った日本とはもちろん産声をあげた福岡や思春期を過ごした鎌倉もそうだが大分も大切な場所で、しかも大分とは貧しくとも太っ腹な祖父にほかならなかった。あのような存在や面影が今の大分にはたしてどれほど残っているのか、今度帰省した時にでもゆっくり見てみたいと思っている。