青春を振り返る際に受験時代のことは避けて通れまい。
80年代前半のかなり長い期間、ぼくの頭の中の多くを占めていたのが高校や大学の受験であったことはけっして例外的なこととは思えない。優秀なやつは優秀なやつで、不出来なやつは不出来なやつで、重くのしかかるのが進路だったはずだ。近年、たとえば80年代以前の漫画だとか音楽・ドラマだとか、そんなものを振り返ってみる動きが一部で出てきてはいるが、実際のところ、そんなものよりもはるかに比重(時間とは限らず精神的に)が大きかったはずの受験を語ってみないことには、80年代の若者の精神史を語ることにはなりえまい。なによりも、自分を語ることになりえまい。
たとえば、ぼくは高校の時分に徳富蘆花『自然と人生』をはじめ、太宰・夏目・三島・横光などの日本文学や外国の文学や思想に親しんだことにしばしば触れているし、実際に高校一年冬から二年冬にかけてほとんど勉強をせずに読書やちょっとした漂泊、それに自己愛的恋愛にうつつを抜かしたりしたこともあったわけなのだけど、高校時代の印象に残る本と言えば、たとえば次のようなものもあったはずである。
『英文解釈教室』
『奇跡の英熟語』
『英文標準問題精講』
『よくわかる英文法』
『大学への数学 解法の探求』
『大学への数学 新日々の演習』、
『新釈現代文』
『古文の読解』
『古文単語ココがねらわれる』
『試験に出る日本史』
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これらの本はいま手元にないわけだけど、すらすらとタイトルを想い起こせるし、これらの本をいかに使いこなせば効率的かということもだいたいおぼえている。けれども、そのような記憶をぼくはけっして心地よいものとして呼び起こせないし、かりに心地よさがあったにせよ、その心地よさを他人と分かち合おう分かってもらおうなどという気にはとてもなれない。その理由としては、よく「受験地獄」と安易に評されるような、体験自体の問題もむろんあるのだろうが、そのこと以上にこうした記憶を心地よく思ってはいけないと囁く時代の声もがあるような気がする。
あるいは別の言い方をするなら、けっして受験をしたかったわけではないが結果としてするしかなかったようなところがあったことは指摘しておかねばなるまい。普通、高校や大学の志望校に受かればそれは「勝利」ということなのだろうが、ぼくや数人の親友にとって、それは「敗北」でしかなかったのだ。
なぜぼくたちは「敗北」に向かって邁進せねばならなかったのか、今後適宜、ここらへんの心情やぼくがいかに受験にのめりこんで行ったかに触れていこうと思う。