前の「日米野球の本当の差」にトラックバックしてくれた日記を読む。
『美しい姿勢とモデルウォーキングのことなら「Airaのおもしろ雑学」』
この人は新庄のファンのようで、彼の派手なパフォーマンスがよくよく好きなように見えるが、彼は彼で童心を演出しているところがあって、(ぼくが虎党だからでもあるが)プロ意識のひときわ高い選手なのだろうと昔からひいきにしている。ぼくは大沢親分も好きだがなぜ彼が新庄に「渇」を入れたがるのかがわからない。
この日記の人たちがけっして離れていかないプロ野球であるのなら、ぼくもずっとプロ野球を好きでいられるんだな、って思う。ぼくも含めてファンの声がどれだけ反映されるのかはよくわからないけど、何も言わないよりは言う方がいいんで、それに川崎投手をオールスターファン投票一位にした徒労をうまい形で使えば、きっと今よりはマシになるのだろうから、野球に関してはぼくなりの視点で今後も話していきたい。
(リトルカズオへの返信の形で)
Commented by redhills at 2004-11-11 22:56 x
MLBが日本で人気を得てきた最大の理由は日本人が挑戦して結果を出したからだと思う。日本人が本場のベースボールで活躍するのが多くの日本人にとって快感だったのではないか。野茂がボンズにまったくバッティングをさせずに空振りの三振にとる。首を振るボンズと無表情の野茂。その対比がおもしろかった。
文化としての野球は圧倒的にアメリカのほうが深い。21世紀の現在、19世紀の過去のルールでのベースボールを楽しむ人たちがアメリカにはいて、リーグ戦を戦っている。確かに、アメリカ人の方が日本人よりはるかに野球を大切にしているように感じる。過去を大切にし、往年の名選手に対するレスペクトを決して忘れない。
・・・・・野茂の活躍でMLBが人気が出たことは確かだな。そして、そのことから単純に野球人気が高まるという道筋もありえたはずだ。結果としてそうなったと言いづらいのには、日本人選手が次々と向こうに行きたがっていたのも含めて日本野球の質の問題が重要ではないのかと自分は考える。
Commented by redhills at 2004-11-11 22:56 x
遊びとしての野球を否定してきたのは、高校野球のように僕には思えてならない。もちろんあのひたむきさ、白球を追う姿は素晴らは否定しない。僕も昔から高校野球のファンである。最近は少しづつ変わってきたが、でも、彼らの姿勢には、余り野球を楽しむ、という様子は見られない。勝利を目指してすべてを犠牲にしてゆく、自己犠牲と献身の精神の発露としての純度はとても高いとしても。丸坊主に揃えた髪形や、一糸乱れぬ練習など、やな言い方をすれば軍隊に近い。そして高野連が非常に厳しい倫理性を高校野球に求めてきた。この高校野球をあの、朝日新聞が仕切ってきたというのも皮肉なことだ。
・・・・・高校野球の存在はこの問題に欠かせないだろうね。ただ、この点は祖父からたびたび話を聞かされたが、高校野球は本来そんなに堅苦しいものではなかったようだな。いつからそれが変わったのは断定できぬが、昭和三十年代(私立野球校台頭の時代)、昭和五十年代(NHK甲子園全試合中継開始の時代)、昭和六十年代(プロ注目選手を中心に甲子園を観るようになった時代)と、それぞれ波があって変質していったのではないか。身近な例で言うと、昭和五十五年夏の横浜(愛甲がエース)なんかは今なら出場停止どころか解散させられるのじゃないかな。
Commented by redhills at 2004-11-11 22:57 x(それにしても長いコメントだ)
何といっても巨人におんぶに抱っこの球界の構造が一番のガンではないか。FAに始まり、逆指名、自由獲得枠と、せっかくドラフトによって勢力均衡を図ろうというのに、金のあるところ、人気のあるところに選手が集まるような仕組みに変えていった。金で頬をひっぱたいて4番打者をコレクションし、200発打線とか、史上最強打線とかいってはしゃいでいる人たちは、子供たちがそれを見てどう思うのか、まったく理解できないのだろう。今の巨人軍をみるがいい、外国人、FAと逆指名、自由獲得枠の選手だらけだ。松井がいなくなり、スタメン野手で生え抜きで高卒は一人もいない。こんな野球に誰がした。
巨人におんぶに抱っ子の構造はかなり前からそうだったわけだけど、以前なら巨人中心で押し通せたのが今の人々にはあまり受け入れられなくなっている時に、野球の文化としての質の問題がまったく顧られず、付け焼刃的になんとか体裁を保とうとしているのだろうな。巨人がカネで補強することそのものはそれはそれでアリだと思うし、巨人ファンが多いというのも悪くはないんだけどね。今年の日本ハムは成功例だね。