対中国ODAを打ち切るかどうかの議論に関して。
ODAを打ち切ることになんら異論はないし、中国国内でもそろそろ打ち切られて当然と思っているふしがあるが、これを靖国と結び付ける論調を聞くにつれつくづくこの国の外交下手を痛感する。この議論が国会で出される際には靖国とリンクされないような細心の注意が必要だと思うが、状況は逆になっているといわざるをえない。
中国という国家と親密な関係を構築したい、あるいはわりと距離を置いた関係を保ちたい、この両者のいずれであるかを問わず、ODAを打ち切る際には中国の一定の経済成長を評価する形で打ち切るべきだろう。それがきわめて表面的に感じられて裏で靖国問題の存在が憶測される分にはいいだろうが、これを靖国への報復と正面切って言うやり方は靖国の解決になるという以前にこれまでのODAに泥を塗ることにしかならないだろう(ODAが実際には現地の役に立っていない、などという考え方はここでは踏まえない)。そこで「中国の経済成長など統計の粉飾ばかりで実態はたいしたことない」などと主張することは意味のないことで、ここで考えるべきことは中国と日中関係の実際がどうなのかという本音ではなくて、かの国といかに付き合っていくべきかに付随する建て前とも言うべき言い回しである。なぜこうも本音ばかりを言いたがる外交をするのか、理解に苦しむ。
かりに靖国参拝は日本に分がある、対中国ODAは不要だという意見が絶対的真実であったにせよ(靖国についてはぼくは、参拝そのものは賛成だが、今の在中日本人の一般的な行動や日本の対中国政策などを鑑みて少なくとも今の日本には不適当という考え方を持っているが、そのことは度外視して)、その「絶対的真実」を具現するやり方として二つを重ね合わせるのが不適当だと言っているのである。よく国益、国益というが、国益を追求するあまりに結果として損害をこうむるやり方だけは避けねばなるまい。
ここらへんは外交うんぬんよりも対人関係の距離の置き方に通じるところで、ドラマなどを観てるとふだんおとなしくしている人がある局面に達した時にキレてそこで本音をぶちまけて親しくなったりする場合があるが、少なくともぼくは実際の世の中でそのような親しくなり方を見たことがないし、かえって関係が悪くなるばかりであろう。ドラマにしろ小説にしろ友情をうまく描く作品はほとんと消失したといえるが、ここらへんは作り手の問題以前に人と付き合うことがわかりづらい世の中になっている(恋愛を除き)からかもしれない。