大学で授業をやった時もそうだったが、日中関係がどうなるのか、あるいは中国とどう関わっていくべきなのかという質問が比較的多かった。
対中国、あるいは対日本でもそうだが、相手の国のことが国内で粉飾をいっぱい飾った形で紹介され、それを元に相手国への判断を下す(親しみを持っていない、とか)わけだから、どうにも始末に追えぬところがある。ただ、そういうことを考慮するとしても、中国とどう関わるべきかという疑問は大切だと言わざるを得ない。授業ではとても話しきれないので、今後ここやあるいは別の媒体でそうしたことも話さなければならないと思っている。
中国とどう関わっていくべきかという点については、ぼくが最近の拙著で描いたぼく自身の動き方がぼくなりの現在の解答だと言いたいが、もう少し簡潔にかつ平たく言えば、今の日本と中国という二国の間での平和的友好などはけっして実現されないとぼくは思っている。もしこの二国が「友好」という形で結ばれるのだとしたら、それは両国の戦後国家的(あるい国民文化的)解体としてしか実現されえまい。そして、ぼくが目指す方向はそれにほかならない。さらに言えばこのことはけっして国家の喪失を意味するものではなく、変容であろう。
たとえばぼくは国家としての中国を好まない。ただし、中国に国家に依拠しない人たちが少なからずいることも事実である。国家に依拠しないというのは、フリーであるとか、反国家的であるとかに必ずしも限定されず、たとえば党の幹部や大企業サラリーマンやあるいは愛国者(中国の)の中にも多数出現する、いわば国民文化的理解(国家一元論)を打ち消す人々のことを指す。ぼくは日本で生まれ育ち、日本と中国のうち日本を贔屓する身だが、「中国人イコール~」の思考をする日本の人はぼくにとり「日本人イコール~」の思考をしない中国の人よりはよその人である。そのことはたとえばぼくが福岡県出身で福岡県を最も愛しつつも、「山口県人は嫌いだ」と冗談ではなしに始終騒ぐ福岡県人を好きになれないこととさほどの違いはない。そして、中国でそういう人たちと手を取り合って、今の東アジアの地理環境が少しずつ変わることに微力ながら関わりたいと思っている。
まったく簡潔でもなく、平たくもないかもしれないので、さらに平たく言えば、気の合うやつとだけ付き合い、その付き合いを大切にしろということにほかならない。そして、両国間の対立が無用になるまでその総和が増えていくのを待つことだ。
こんなことを言っては靖国も尖閣も油田も解決しないという批判があろうが、ぼくからすれば、こういう方向でしか靖国も尖閣も油田も解決されず、国民文化国家で固まった同士がいくら自論を主張しようが、水掛け論になるか、あるいはかりに靖国か尖閣か油田が解決しようが後の時代にまた覆される繰り返しに過ぎない(そんなことが国際法上許されないと主張するほど楽観主義者ではない)ので、現時点での外交にはあまり期待していない(将来の外交には期待したい)。もしどうしても今すぐに、しかもすべて自国に有利に解決したいと急くならば力ずくでの外交(戦争になるかもしれない)を始めるしかなかろうが(その意味で強硬論の背景はわかる)、そのことに反対するがゆえにぼくは以上の立場・心境を守るつもりである。そして、この意見に大きく異論のある人はおそらくぼくとは思考や感情の上に立つ次元が異なるので、議論してもおそらく永遠に水掛け論にしかならないと思っている。そもそもかくなる考え方は議論ではなく、心境であって、その意味では宗教にも近い。ぼくはこのことを議論で実現したいとは思わず、ただただ時の推移を信頼するほかはない。