静夜思 李白(701~762)
牀前看月光・・・・・・・牀前(しょうぜん)月光を看る
疑是地上霜・・・・・・・疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月・・・・・・・頭(こうべ)を挙げて山月を望み
低頭思故郷・・・・・・・頭(こうべ)を低(た)れて故郷を思う
寝台の前に差し込む月の光
その白さ、地上に降る霜なのかと
頭を挙げて山上の月を望み
頭を垂れて故郷を思う
(註・・・「看」と「山」を「明」とする本もある.日本でポピュラーな例に従った)
・・・月に望郷を重ねるところと、故郷を思うときに顔をふせて物思いにふける感覚は非常にわかりやすい。
けれども、ぼくはこの詩がなかなかわからなかった。
それは
①第二行をどうして「疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと」というふうに、つまり月光を霜にたとえるふうにしたのか(言い換えると、望郷の念にかられる人が月を霜のように見るのか)
そして、
②はたして月を見つつ故郷を思う時に香港のC級役者の演技のごとくうなだれるものなのか、
の二つがずっと疑問として残っていたからである。
たくさんの解説を読んだが、この二点を納得いくように教えてくれる解説にめぐりあったことはないし、あるいは漢詩の鑑賞では必要のないことなのかもしれない。けれども、こうしたことを考えるべきでないというならば、そもそも漢詩を現代人が読む意味もさほどないのではないか、とも思う。
漢詩の専門家でも愛好者でもないぼくにとって、この詩を綴った李白の真意や唐代の背景などは極端に言うとどうでもいいことで、大切なのはこの詩がぼくに訴えるものをとらえることだけである。
ところが、先の二つの疑問だが、ここ数年のあいだになんとなくわかりかけた気がしてきて、さらに言うと、この「なんとなくわかりかけてきた」といったわかり方が李白に臨む場合に必要なことなのではないかと思うようになった。それは第二行のもたらすイメージがおごそかなものであるところから来る一つの心境であって、また、以前のぼくは「低頭」の箇所で眼を閉じてしみじみと故郷を思う姿を連想していたのだけど、あるいはそうではなくて、「地上の霜」を見るかのごとく、眼を半開けの、禅の状態に近い感じに下げていたのではないかと思うようになった。そして、この詩の力点を第二行に置くと、彼が「故郷を思う」のはけっして悲しみだとか哀愁だとか言うよりも、もっと無機質な、もしくは運命を受け入れるような感覚に近いものなのではないかと感じるようになった。
谷崎潤一郎は「思故郷」の箇所を
・・・・月明に対して遠い故郷をあこがれる気持、一種の哀愁がこもっておりますが、作者は「故郷ヲ思フ」といっているだけで、「寂しい」とも「恋しい」とも「うら悲しい」とも、そういう文字を一つも使っておりません
と、省略がかえって哀愁を引き立てる効果を持つ例にしていて、確かに説得力に富む。けれども、あるいは李白は本当にただたんに故郷を「思った」だけにすぎないからそう書いたのではないか、そんなふうに思ったりするのである。正しい解釈かどうかは別にして、そう考えるとぼくの疑問は解消されるし、この詩の途方もない深さに引き込まれもするのである。
ところで、非常に無責任な言い方だが、ぼくは以上の見方への確信を五〇%程度しか持ち合わせていない。第三行まで月を見せ最後のくだりで物思いに沈むふうに展開することは確かにしっくり来るし、「おfごそか」とした霜の捉え方が後日変われば解釈もおのずと変わるのである。長々とした一文でぼくが本当に言いたいのはぼくの見方そのものではなくて、このような見方をさせてしまう、わずか二十字のおもしろさである。
この詩を知っている人も知らない人もいるかと思うが、ぼくの見方の妥当性はともかく、このように疑問を持ちつつ年を取るごとにそれが解決されたり、あるいは新たな疑問が起こってくるような読み方が愉しめる意味で、李白も漢詩もなかなかおもしろいと、あらためて思い始めている。