友がいない、という悩みをたまにきく。友は自然に出会う場合もあるが、探して見つかることも多い。ただし、探すという行為は自分が何かをやりながら同行の者と出会う性質のはずで、自分のやっていることこそが出会いに反映すると言うべきであろう。王維は詩人だからこそ詩のような交わりをしたのであり、詩人を探すのではなく、詩を書くことが詩友を探す行為ではなかろうか。
また、友と言う場合に、人それぞれの過程においてさまざまな種類の友があることは確かだとも思う。今日はイタリア料理が食べたい、明日は寿司が食べたいと考えるように、会話が楽しい友、カラオケが楽しい友、ナンパが楽しい友など、いろいろな友があるはずだ。この種類分けを忘れて会話の友にナンパを押し付けることは時に決裂をもたらす。かかる場合「相手の本性が見えた」などとしらじらしく思うことは常だが、本来が会話の友だったのであり、また、そのことはけっして友情を貶めるものでもない。
誰も彼も同じように扱ってベタベタするよりは、それぞれのタイプが存在することをそれぞれに愉しみたいと思うようになった。
昨夜は銀座で高校、大学時代の友人と一年半ぶりに会う。高校三年の頃から数ヶ月に一度ファミレスに赴き、コーヒーだけで長時間話した間柄で、頻繁に会った友と同じくらい大切だ。最近は一年半に一度の割合で会うが、このペースが最も適切だと了解している。別れ際「じゃあ一年半後にまた会おう」と言い合って、彼は地下鉄の階段を降り、その姿を見送りながら、次回ぼくは何をしているのだろう、などとふと考えたりする。
送元二使安西(元二が安西に使いするを送る)
王維(701?~761?)
渭城朝雨浥軽塵・・・・・・渭(い)城の朝雨 軽塵を浥(うる)おす
客舎青青柳色新・・・・・・客舎 青青 柳色新たなり
勧君更盡一杯酒・・・・・・君に勧む 更に尽せ 一杯の酒
西出陽関無故人・・・・・・西のかた陽関を出づれば 故人無からん
渭城の早朝の雨が軽く舞いあがる塵をしずめた
宿の前、柳の色は青々として、新鮮だ
最後にもう一杯だけ飲めよ
西の陽関を越えたら、もう盃の友もいないだろうから
・・・・・・・・短歌は恋愛歌が多く、漢詩は友情詩が多いのではないか。この詩は別離の詩だが友情が引き立っている。第3行以降の感情がよく伝わるが、最近は第1、2行が気に入り始めた。なぜ別れの朝に「柳色新たなり」なのか、そのように考えたりするのが答えが出てないけども愉しい。それと、第1、2文はいかなる訳よりも原文がこの情感を最もよく言い表しているとは言えまいか。