新京報特集「了解日本,从理性阅读开始」
日中、という枠組みをデモの暴力、という一言で批判的に断じることは簡単だが、そういったものとは別の方向性が出ているとしたら、それが大勢の前で目立たなくても積極的に評価していくことこそが物事を始めることにほかならないだろう。それは他人の仕事ばかりでなく、自分に対しても同じであろう。
昨年十二月に三聯書店「生活週刊」の日本特集を見たときも、もちろん、作り手が中国を愛し、さらに言えば国の体制や民衆の声を多分に反映していることは事実だし当然のことだが、「侵略史」と従来ならば書くべきところを「関係史」としたり、あるいは「漢ガン(裏切り者、の意)を「代理人」としたりと、さまざまな模索が見られ、こうしたことに気付かずに一刀両断していては何も始まらないのではないか。ぼくも日本の媒体に自分のスタンスでいろいろなことを書いているが、他人から日本のメディアは中国バッシングしか書いていない、などと言われると無力感に襲われてしまう。ぼくが無力なのは事実であるが、無力がいかに力を持つかも含めて、無力だからやめる、という思考法をとうに取らなくなった。
というわけで、上記の記事を引用した。