20年以上前に森下で通り魔事件を起こした犯人の男が犯行の動機について「電波に自分は侵害されているのだ」みたいなことを言っていて、「意味不明」などと形容されていたが、殺人事件がとんでもないことであることを前置きした上で言えば、確か当時中学生だったぼくには彼の言うことがすんなりと受け入れられるような気がしていた記憶がある。その感想は今でも変わらない、と言うか、年々彼の言いたかったことがわかるような気さえ起きてくる。
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昨晩は渋谷・宇田川町の
「佐賀」というわりと古い居酒屋で若手編集者のKさんと会う。中国の話ばかりをするわけではないが、中国の話も当然するわけで、中国がどうのこうの、という話よりは日本語で中国を書く(表現する)場合の本音についての話に終始する。
反日デモもそうだが、過剰な報道をする報道関係者の中で本当に記事どおりのことが起きたと当人が信じているかは多分に疑問で、ぼくの知る限りでは書いている当人は信じていない。当人が書いているものを信じていないのだとしたらそれを読まされる方はたまったものではないだろうが、テレビにしろ映画にしろ文字媒体にしろラジオにしろ教科書にしろ外に出回っているものの大半がそうではないかと思われ、そうでないものをたくさん紹介することが必要であるには違いない。問題なのはなぜ信じていないものを書かねばならなかったのか、ということで、たとえば酒の席でどれだけ正論を吐こうがいざ公に発表したり、いざ処世をしていくと、正論とは別のその人たちにとっての「まこと」が見えてくるわけで、自分が批判しているはずの構造に自分がとらわれていく様子もしばしば見られる。反日デモにたとえて言えば、「私的」にどのように思おうがそれを記事にする場合にこそ本当の態度が表れてくるわけで、通常は「私的」な意見の方を「本音」と呼ぶが、今、という時代をとらえる場合にはむしろ公的な話の方を「本音」とすべきケースに頻繁に出くわす。この公的な空間をどう変えていくかが問われるのだが、ぼくは現時点での仮説として「私的」な、いわゆる「本音」が野放しにされて公的な意見や態度、すなわちこの文で言う「本音」と隔離していることは問題視している。そして、こうしたことはいくら言葉で語ってみても何も変わらず、いかに生きるかということで表わしていくしかないのだとも思う。
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ところでこの「佐賀」という居酒屋はわりと有名な店でNHK関係者の利用も多いようだ。昨日も隣にNHKスタッフと思われる人たちがいて、
「プロジェクトXのやらせ疑惑」、の話をしているのが聞こえた。あの番組は毎回の主人公がスタジオ出演するわけだから、主人公が番組内容に根本的に異議を挟むことは滅多にないものと思われるが、なぜこういうことになったのかがよくわからない。ただし、そういった事実経過などよりも、あれがスクールウォーズを真似た構成であったことだけを把握しておけばいいのではないかと思う。不良が何か目標を持って善人に更正されていく話は幸か不幸か心地よく、自分はそれそのものについては否定しないが、スクールウォーズでなければ彼らが浮かばれないそうした構造が貧困だとは言える。それはぼくの貧困でもある。