往来が多くなれば、交流も深まるのか、ここで言う交流とは必ずしも友好とは限らず、衝突も含めた交流だと前置きしておくが、往来が多くなったからと言ってここで言う交流が密になるとは限らないことを、おそらく家族疎遠などから類推することが容易になってくると思う。
たとえば、中国や台湾や韓国を語る人は多いが、その中で明らかに本やネットやテレビからしか知識を習得していないと思われる論者は少なくない。一部の人の議論を聞くときに得る違和感の最たるものは、それが客観的知識であろうとしすぎるがゆえの偏見にほかならない。たとえば、AとBという人がいて、それが交わる場合、AがXという性格でBがYという性格だったとしても、AとBの二人の空間で考えた場合、AがXでBがYになるとは限らない。たとえばAが強引な性格だったとしてもBにとってそれはやさしさだとかになることが往々にしてあるわけで、異文化交流も基本は相対知であって客観知ではありえない。そこに無理に客観知を持ち込むことはロジックとしては有効でも関わり合う中での知識にはなりえないのだ。
このことは実際にかの国に行ったとか行ってないか、などとは関係なく、つまりはどれだけかの国に関心を持ち、関わり、考えてみたところで、固定した偏見を増幅させるばかりで、つまりはこういう認識からは往来が増えようがそれはすれ違いが増えるだけなのだ。そのことを防ぐ確かな方法は知識量を増やすことではなくして、関わるということの基本を押さえた上で、はたしていま自分は本当に関わるという行為で物を語っているのかを絶えず確かめることに違いないと思う。