近い将来、携帯電話で電車に乗れたり買い物ができるようになるらしいが、携帯電話には年々明らかな変化が多機能以外にもう一つある。それは電池の容量が少なくなっていることだ。ぼくの携帯電話歴は92年のムーバなんとか(トランシーバー並みの大きさだった)に始まり、ノキア、ムーバP209、504、AUのwinなどと変わっているが、年々電池の切れるのが早くなっていて、今では1日すらもたない。
何もかもが携帯電話でできるようになったとしても、夕方を過ぎると電池が切れてしまうのであれば何の役にも立たず、かえって不便で、つまりは携帯電話を買い換えるしかなくなる。そのように考えた時、商品の進歩とは必ずしも便利さの追求ではなく、いかに消費者からカネを取るかの発想が幅を利かせているのではないかと思わざるを得ない。新幹線をはじめとした鉄道にも同じことが言えるかもしれない。
高度成長時代に洗濯機や冷蔵庫が普及したことで労働が節約され、便利さを追求する欲求と、反対に便利さに背を向けるノスタルジックな心が引き立てられたが、たとえば携帯電話やパソコンの登場自体がその延長戦上にあるとしても、携帯電話が進化していくことはけっして便利さの追求にはなっていないことを把握しておきたいと思わされる。便利さの追求だと喜んだり、反対に便利さの追求だからと否定してしまうのはともに筋違いではないかと思うのだ。高度成長期の亡霊のごとく、嘘の便利さを振りまいているのではないかと。