最近の中国を見る上で重要なのは、経済成長・国際化とともに人々の政治に対する考え方が変わってきたことであろう。
広州市穂港澳青少年研究所が実施した市民の意識調査(広州市の十五歳~四十二歳までの青少年四百九十二人が対象、平均年齢は二二・八歳)によると、回答者の五九%が「より多くの参政機会を得たい」といっそうの政治参加を望み、八七%が「市民は行政を監視する責任がある」との認識を持っているという。回答者の平均年齢から見て、若者で政治参加を希望する者が増えているのだと考えられる。
同研究所の陳冀京副所長は、「青年層は主体性が強く、地域の自治活動への情熱は高いが、政策決定への影響力は小さいと捕らえている。個人の意見が政府の政策決定に対して影響力を持つと回答したのは一九・三%に留まった」と説明している。
また、社会参加については、六七・五%が「自分は社会の不正行為を正す責任を持つ」とし、六六・三%が「市民の最重要責任は法の遵守」だと答えている。
これらの調査結果から浮かび上がってくるのは、市民社会への強い関心を持ちつつも政府を比較的冷めた眼でとらえる、いわゆる市民的な発想が若い層の間で普及しつつあるということだろう。ここで言う政治参加とは、政府を監視するような民主主義的発想のものだと言え、自らが政治家になるとか、紅衛兵になるなどということとは根本的に別の考え方である。
これまで中国のことを日本に紹介する際に、しばしば「市民」という言葉を使いつつも、違和感を抱かずにはおかれなかったが、それは実質上選挙もないに等しく、政策決定にひたすら行動を合わせていくような都市に住む人たちを「市民」というよりは「人民」だととらえる方がむしろ自然に思えたからだが、若い層を中心に「市民」と呼べる層が広まりつつあることは間違いない。広州に近い深圳では、近年、選挙に出馬する若者が相次ぎ、それと歩を合わせるかのように選挙に関心を持つ層が増えている。これまで選挙と言えばあくまで形式上の茶番劇でしかなかったことを考えれば、隔世の感がある。
政治参加希望の若者が増えたなどというニュースが出てくるたびに、「法治主義化を宣伝するためのプロパガンダだろ」などと冷笑的にとらえる層が日本でも少なくはないだろうが、確かにこうしたニュースは中国の発展を殊更宣伝したがる要素があるとは言え、従来の「中国」イコール「人治主義の赤い国」ではとらえきれぬ層が増えていることは間違いない。法治主義が徹底するにはまだ長い歳月が必要であることはむろんだとしても、いつまでも中国が「人民」ばかりの国であるととらえることはもはや不可能になったと言ってもよい。(2004年3月)