他人を指導する時に肝心なことを一つ挙げるならば、それは「逃げ場」を作ってやることだと思う。
中高生と言っても、対象や目的によって教育方法が自ずと変わってくるのはもちろんであるが、叱るような場面、間違いを正す場面、あるいは当人が荒れている場面、さらにはあまりにも反応がない場面のそれぞれで「逃げ場」は大切である。喧嘩をする際の唯一にして最低限度のマナーは相手を追い詰めないことであり、追い詰めたとしてもどこかで出口をそそのかせてやるのが正しい方法ではないかと思う。叱る場合や、荒れている人間の行動をやめさせる際にも言えることで、出口がない時に人は究極の手段を選ばないとも限らない。
あるいは間違いを正したり反応を得る時もそうで、学生時代、ぼくがバイトをしていた塾のクラスに、指名されて間違えるのが恥ずかしいあまりに授業に積極的に参加できない高三男子生徒がいたが、教師であるぼくがわざと立て続けに間違えることに大喜びし、ついにはぼくの誤りを指摘したいがために積極的になったなどということもあった。「逃げ場」というと消極的なイメージがあるが、要はその本人を限定された空間の中でなるたけ本人らしく発露させてやる場ということである。
現実の教育現場をあまり知らないので軽々しくは言えないが、今の学校には「逃げ場」にあたるものがあまりないのではないかと、ニュースに接するにつけ思う。その原因に教育制度のあり方を連想するのは容易だが、必ずしもそうではなくて、そもそも学校の教師自らが「逃げ場」の必要性を知らないのではないかと思うのである。通常「逃げ場」などというものは逃げたいような情況に陥らないと必要性を感じないものであり、なんとなく教室にいて、なんとなくみなと楽しみ、なんとなく教科ができたような人には無縁なものなのかもしれないし、あるいはそのような人にも「危機」の瞬間は存在するのかもしれないが、家庭や学校で頭ごなしに押さえつけられることが平気であるとすれば、我慢すれば済むだけのたいした問題にもならないのだと思う。
ぼくが「逃げ場」の必要性を知るきっかけは高校時代で、思春期特有のメランコリーや学外での失恋、それに家庭状況などから高校に通うのがつくづく嫌になっていた一年あまりがあり、とは言え学校にでも顔を出さないことにはほかにぶつける相手もなく、学校には昼通学し、授業はほとんど聞かず、時には授業中に自分の机の周囲に段ボールを山積みしてバリケードとした上でウイスキーを飲んだりしていた。教師はおろかクラス中から嫌われていたし、ますます嫌われてやろうとすら思っていた。ともすれば何をしでかすかわからぬ十七の心にとっての拠り所が化学講師の西田実だった。
西田実という人のことをぼくはよくは知らない。昭和二十年代中盤に生まれ、ぼくの高校の先輩であり、臨時講師として高校で週二日勤務していたことぐらいしかはっきりとはわからないし、今どうしているのかも知らない。東北大学在学中の昭和四十年代には学生運動に関わっていたという話もあり、あるいは化学講師になる前はトラック運転手だったともまことしやかに囁かれていたが、その真偽にはあまり関心がない。年齢は三十代後半、眼鏡の似合う素朴な田舎インテリという風采で温厚そうなスマイルが一部の女子生徒に人気があったものの、そんな外見にふさわしく訥々と棒読み口調で進める彼の化学の授業に耳を傾けたことはなかったし、たぶん教科書も買ってなかったように記憶している。
最初の化学の試験の時、ぼくは白紙に近い答案を出したが、返却された答案の片隅に赤で「化学の知識は大切だろう。今度職員室に話でもしに来い」と書かれていた。当然のように無視していたら、次の試験でも同じことを書かれた。さすがに二度も同じことを言われたら行かねば失礼な気もしてきて、ある時、理科準備室という彼と助手の女性二人しかいない部屋を訪ねた。
ぼくは当時読書ばかりに耽って高校の全教科をボイコットしていたような所があり、聞く耳など持たなかった。彼はぼくに化学を勉強することのおもしろさをあれこれと語っていたが、ぼくは「そんなものより今は読みたい本があるんだ」などとへらず口を叩いた。「どんな本だ?」ぼくが書名を片っ端から挙げると彼も読んだことがあるらしくぼくの読後感をあれこれ論じるようになった。そんなことをしているうちに彼の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、「また時間がある時に続きの話をしよう」ということになった。
以来、彼が出勤する火、木曜は数少ない親友に頼んで腹痛を起こして保健室にいるなどと見え透いた嘘を言ってもらい、そそくさと教室を離れ、奥の別館校舎にある彼の部屋を訪ねるのが習慣となった。丁寧にも毎度毎度コーヒーなんかも出たりして、彼が授業で外出する際もこの部屋で読書をしたりした。会話は主に彼が学生だった六十年代の文化、彼が住む辻堂海岸沿いのおいしいレストラン、あるいは失恋をいかに乗り切るかなどで、要はどうでもいい話ばかりであった。ただ、ごく狭い行動空間の中だけであれこれと考えめぐらしてきたぼくにとって、最も親しい大人だった彼の話はたまらなく広く、自由なものだった。
彼は終始「お前は化学をやらなければダメだ」と言っていたが、条件反射のように出されるぼくの反撃を、不思議にも否定することはなかった。ただぼくが何を言おうとも化学をやる必要性だけは曲げなかった。そんなこんなで彼との議論は終始噛み合わなかったわけなのだが、一年余りこんなことを続けていく中で、心の荒れが次第に収まってきたのが自分でもわかった。
あの時なぜ彼はぼくの反論を真っ向から否定しなかったのか。当時はぼくの議論が勝っていたのだなどと思っていたが、おそらくそんなことはあるまい。確実に言えるのは、彼がいかなる説得をしようがぼくが聞く耳を持たなかったことで、さらに言えば彼の主張がわかるだけの頭脳と精神の準備がされていなかったことであろう。彼と面と向かっていた時は化学を学ぶ気など一度も起らなかったが、その後大学に入ったぼくが一般教養で唯一熱心に耳を傾けたのが化学だった。真理とはまた一つ別の、高校生のぼくにとっての真理に心を投げかけてくれたのが西田実先生だった。
神奈川県の公立高校はやがて教職員の大幅な刷新を図った。どういうわけか長年同じ学校に務めるものや母校のOBであるような職員が真っ先に転勤を命じられることとなり、彼は講師を辞めたと聞く。あのような寛大な教師が果たして今の高校にいるのか、少なくとも彼の存在の大きさ、そして彼のような教師がまだ残っていた当時の校風を記しておく必要はあると思っている。