木村尚三郎先生はぼくにとって数少ない恩師と言える方でたくさんのことを教わった。その方が昨日亡くなられたことを今朝の新聞で知り、今この文を書いている。
木村先生とは直接には関わらない。西洋中世史が専門で、専門以外でも日本のさまざまな分野で活躍されていたが、日本の財界・政界・官庁・地方自治との関わりが深く、いずれもぼくにとっては遠い世界のものだった。特に2年生の時にハルビンから帰り中国との関わり方を模索し始めたぼくにとっては先生の携わる仕事も西洋史も視界になく、就職の相談をしたこともない。ただ、1年の前期の先生の授業になんとなく参加し、思うところを書いたことがきっかけで、ハルビン行きを境にぼくの考え方や行動は180度変わったが、在学中ずっとお世話になった。
大学の時分、ぼくは大変貧乏だった。周囲のバブル的な風潮を睨みながらしこしことアルバイトをし、ディスコだとか六本木waveだとかセゾンだとかDCブランドだとか合コンだとか美味しいレストランだとかテーマパークだとかそういった80年代的な学生生活とは無縁で、少しでもカネがあると逃げるようにアジアに出かける、そんな学生生活だった。あの頃のぼくは、常々自分が社会からも時代からも必要とされていない人間なのではないかとの自問自答にくたびれ果てていた。そんな中の数少ない潤いの時間が一部の同級生や先生、あるいは他の人たちとの間であったが、中でも木村先生の存在は無言の叱咤激励という意味で特別なものだった。
大学1年の秋ごろから、およそ半年に1回の割合で、先生にご馳走になった。場所はきまって赤坂東急ホテル最上階のフランス料理店「ゴンドラ」で、そこのシェフは先生と親しかった。こうしたことのすべてがぼくにとっては驚きだった。ぼくはフランス料理を食べたこともなく、またそのような店のシェフと親しげに話す光景など想像したこともなかった。日ごろバブルを恨み世を恨んでいたぼくにとり、2~3時間ほどの食事は明治の下級士族が鹿鳴館にでも行ったかのような豪華絢爛なひとときだった。
木村先生は話術に頗る富んだ方だったが、若い頃は無口でいつも押し黙っていたと言っていた。さまざまな経験や立場を経て、あの落語家のような独特の語り口を体得したのだろう。食事の際、思い出すにぼくは名作を書きたいだの、アジア差別がどうだの、大学の授業がツマランだの、根拠のない感情論を口走ったに違いなく、先生はそのどれにも温かくかつユーモラスな語り口で応えてくれたが、会話に仮に上下を付けるとすれば、知識や思慮の浅薄な人間の方のレベルに落ちつくはずのものであり、総じて言えばただのおしゃべりだったかもしれない。ただし、ぼくにとってみれば、日ごろ自分の中で肥大化する思想を相対化する唯一で貴重な生きた教材だった。博識なだけでなく想像力も豊かで、自分の知らないことについても知らない自覚の上で新たな認識に積み上げていくような、とても知的な方だった。
次回いつ会うかを決める際に、先生は手帳を取り出し、スケジュールを見るが、86年から91年ぐらいにかけての先生は1年後ぐらいまでほぼ毎日スケジュールが埋まっていた。その中身を見たことはないが、おそらく政府・財界・文化界などの著名人との会合ばかりだったのではないか。そういう多忙な間になぜぼくと会う時間を設けてくださったのかが、当時のぼくにはわからなかったし、今もわからない。ぼくは西洋史専攻の学生ではないし、仕事の面で声をかけられたこともなく、当時としてはなんら価値のないただの無名で貧乏な男子学生で、ぼくより優秀な学生など男女とも山ほどいた。さらにぼくは会話がうまかったわけでもないし、中国の情報を先生に提供したわけでもなく、高校の後輩でも同郷でも共通の知人がいるわけでもない。多少でも暇のある人ならまだしも、一年後のスケジュールまでびっしり埋まっている人がなぜわざわざそのようなぼくに会ってくれ、しかもぼくが行ったこともないようなレストランでご馳走してくださるのか、先生がゴンドラを選んだのはまだ無名で貧乏な大学院生の頃に先生にとっての先輩であった林健太郎先生からここでご馳走になったことがとても嬉しかったから、というふうに語っていたが、林先生にとっての木村先生と木村先生にとってのぼくとでは釣り合わない。そのわからなさは今もってわからないが、ただ一つわかるのはそのわからなさがぼくを支えたということだ。何を教わったというわけでないが、すべてを教わったというふうに今は考えている。(続く)