「岸辺のアルバム」は1977年の半年足らずしか続かなかったドラマだが、ファンは少なくないらしい。ぼくも何か一つ心に残るテレビドラマを挙げろと言われれば、「岸辺のアルバム」を挙げるし、若い人や海外の人にも知ってもらいたい作品である。
多摩川沿いの新興住宅地、杉浦直樹、八千草薫の夫妻に姉・中田喜子、弟・国広富之というどこにでもある四人家族。杉浦直樹は仕事第一の家族を顧みない亭主関白で、一方の平凡な主婦・八千草の心の隙間にご近所さんの竹脇無我が介入してくる。中田は中田で平凡な家庭に飽き足らずにわが道を行くが米兵に犯され、多感な国広が外面的には平和な家族の秘密をことごとく知ってしまい荒れてしまう。家族がいよいよ崩壊するかと思われた時、多摩川の大洪水で家が流されてしまう。
竹脇無我がいきなり電話で竹脇の存在すら知らぬ八千草を口説くあたりの、現代ですら及ばない衝撃さと妙なリアリティーが印象深かったのだが、このドラマは衝撃的な出来事や登場人物同士の対立が実に多く、その設定から誰しもがおそらくは誰かに感情移入でき、対立する人間に対して反感をおぼえたりもするが、にもかかわらず、その反感は一定の線を越えない。洪水で家を流されるという結末で終わる設定と、その結末が最初から掲示されるドラマの妙との重なりがなせることなのだろう。
この中の誰か一人の心情にだけ思いっきり近づけると対立する相手を許せなくなるが、対立するには対立する一方をどこかで許さなければならない。そうでない自己完結した対立は自分の頭の中でしか膨らませられず、だからこそ真実味が出てしまい、それもまた真実だ、といってしまえばそれもそうだが、ぼくは高校の頃からさんざん接したそうしたものに飽きている。そうしたものや、あるいはバラバラなものを無理強いして団結させたような、要は社会的対立のリアリティーの浅薄なものに触れたりすると、「岸辺のアルバム」のこの
オープニングを見たりして、作品が受け手に与えるやさしさとは何なのかがあらためて問いかけられてくるように思え、又一度触れてみたくなってしまう。