明日発売の中国語ジャーナル2月号で連載『素顔の中国人』第35回「オリンピック気分の陰で」を書きました。機会あればご一読ください。
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大分市では飲食店の閉店の噂をよく耳にします。ファミレス・チェーン居酒屋の進出や、飲酒運転取り締まりの影響などもあるのでしょう。それと、大分も、一方では駅があって通勤通学の人たちだけで賑わい、他方で本屋もスーパーも大きな道路沿いの量販店が繁盛する、という「日本」によくある街になりつつあります。なりつつある、というよりも、もうすでになった、と言う方が適切かもしれません。それはそうと、ここでは消費以外の文化にはなかなか出会えません。飲食店の閉店とともにそういったものもよりいっそう少なくなっていく、そんなふうに思います。願わくば、「一方では駅があって通勤通学の人たちだけで賑わい、他方で本屋もスーパーも大きな道路沿いの量販店が繁盛する」流れを形成する人たちの中でおもしろいことが芽生えていくことですが、ぼくにはまだ見えません。何か始めなくてはいけないな、そんなふうに思っております。
大分を思う時も中国を思う時も東京を思う時も日本を思う時も世界を思う時も、ぼくのスタンスは次の一言に集約されます。
一部分でしかなく、一部分でありうること。
ぼくが何かを始めたところで大分は変わりませんし、日本も変わりません。そのように考える時のぼくは「全体」です。全体を思考することは時に大切ですが、全体は全体を構成する一部分の活性を育むどころかむしろ無力感という阻害をもたらします。いつの世のいつの場所でもそうかはわかりませんが、少なくともぼくがいる世の、ぼくが暮らす場についてはそうです。大分ではたとえば「画廊などあったところでどうせ誰も来ないよ」と言います。本当に誰も来ないのかどうかはやってみなければわからないはずですが、「誰も来ない」と考えることが「誰も来ない」現実を作り出してしまいます。そして、画廊は生み出されなくなってしまいます。
みなが上がると思えば上がり、みなが下がると思ったら下がるのが株で、株式を発行する会社や世の中の流れも大切ですが、その客観的事実よりも主観が突き動かすのが株に限らず現在の多くの場面に見られます。ぼくはそういうことに抗したい。とすれば、まず、「ぼくが何かを始めたところで大分は変わりませんし、日本も変わりません。」という自分を否定するところからぼくは歩かなくてはならないと考えます。そのことがぼくが一部分にこだわる理由で、そのことをたとえば中国と向き合う際にも実践しようとしています。