八卦掌の稽古は腰との格闘である。ぼくの腰は内蔵の問題と腰自体の問題が絡み合って大変なことになっているが、八卦掌の稽古が腰によいであろうことは重々承知していても、稽古そのものは腰にしんどい。中国で昔、「国有企業改革を進めなければ大量の潜在的失業者を雇用できないが、国有企業改革を進めると大量の失業者が出る」などと言われたが、似てなくもないジレンマを進んでいる。
少なくとも10年前まで、ぼくは腰痛という症状を知らなかった。自分よりも大柄な男と相撲を取る際、下半身の重みを基本に、下から突き上げる形で相手の中に入り、上半身をハズで押し、足技をも使いながら徐々に前進するイメージを持っていたが、この取り口は腰を頼りとしたものであり、人並み以上の腰だったのではないかと今にして思う。
そんなことがわかってきたのも腰が悪くなってからで、腰がよかった時に八卦掌と出会わなかったのは不運であり愚かでもある。
知ってからでは遅いということが生きていく中では多い。受験勉強の方法がわかるのは受験が終わってから、自分なりの青春の過ごし方を分かり始めるのは青春が過ぎてからというふうに。どういうふうに本を書けばいいのかも、ぼくに関しては本を書き終わる頃にならないとわかってこない。中にはマニュアルをうまく活用できる器用な人もいるのだろうが、そうでないたぶん多数の人は何かをやっていかないことにはその何が何であるかもわからないのではないかと思う。
ただし、知るということは知ろうとする気持ちの高まりからいつしか出てくる仮説の獲得に違いなく、知ろうとする気持ちこそがその時その時の行動にほかならないのだと思うから、知るという結果が遅かったかどうかは考えまい、そんなふうに思い直したりもする。というわけでこれからも稽古を続ける。