『靖国』の上映を取りやめる映画館が相次いでいるという記事を何かで読んで、それだけならどうでもいいが、もしかりにどこも上映しなくなったとしたらそれはとても残念であると思うことをこの場で言っておきたい。
何が残念かというと、右翼の抗議ではなく、映画館が自主的に取りやめる点に対して。そりゃ反対する人はいるだろう。でもそれでも上映するのが表現するということなのではないのか。今報じられている以上の妨害があって上映中止を余儀なくされたというのなら話は別だが。
先日「右でも左でもなく純粋に映画を知りたいがこのことを周囲に話せない」という悩みのメールを頂いた。そうした人はけっして少なくはないと思う。しかし、そうした人の受け皿が年々少なくなりはしまいか。「反日」に際してぼくはたびたび「反日などある意味どうでもいい、親日の不在こそが深刻」と述べたが、『靖国』に対しても、これと同種のことが言える。反対があるのはもっともだが、それでも本当の意味で支持する層がいるかいないかが大切なのではないかと。それともまったく反対が出ない状態でないと何事もやれないのか。多様性の喪失は、反対勢力の攻撃からではなく、自主規制によってしばしば起こされるように、中国を報じる者としては思う。
チベット問題をはじめ、中国の官製メディアを見ていると、よくもまあ一様な意見しか出てこないな、と思う。でも、『靖国』がまったく上映されなくなったら、日本もたいして変わらないと言いたくもなる。