受験というものの不合理というかやりきれなさを感じ始めたのは中二の秋だったように思う。
中学は神奈川で、公立高校に進むぼくたちには「神奈川方式」という独自の高校選抜法が用いられた。「神奈川方式」とは一発試験よりも平常の学習態度を重視した試験制度で、中二・三月の内申(五段階九教科の合計点)、中二春に行われるア・テスト(九教科)、中三・二学期の内申(主要五教科×1・5+技術四教科×2)、入学試験(英数国理社)の四つの総合点で高校が選抜される。比率の大きいものから順に、中三・二学期の内申(33%)→入学試験(30%)→ア・テスト(20%)→中二・三月の内申(17%)だったはずだ。つまり、一年次の成績はまったく反映されないものの、二年・三月の内申は二年の中間・期末試験すべてが対象になるので、二年生になると本格的に勉強を始める者が増える。ぼくもその一人だった。
というわけで二年になるやそれなりに勉強したわけだが、ぼくは勉強ができることはそれはそれで楽しかったが、学年で何位だとか、どれぐらいできたら○×高校に入れるといったことには当初は関心がなかった。そもそも自分の進路が記号のごとくテストの点一つに凝縮されることが嫌だ、と言うよりも方程式の数式計算のごとく他人事のように思えてきて、早い話がすんなりと飲み込めるものではなかったのだろう。
事件はそんな中二の十月に起きた。
この時期にあった中間試験は試験三日前に親父の勝手な思いつきで熱海に二泊三日の温泉旅行に付き合わされるはめに陥ったが、それなりの準備はできていた。教師たちも「これからの試験の結果は進路に響くから真剣にやれ」などと言っていて、同級生の日ごろの顔つきもいくぶん硬直しているみたいに思えた。
その頃、ぼくの隣りの席はM子というちょっぴり不良じみた女の子が座っていた。片親のやや貧しい家庭に育ち、紫のガウンなどを着込んで登校するわりと問題児だったが、陽気で対人関係はよく、「がり勉」などとクラス中の女生徒から揶揄されていたぼくにも概してフレンドリーだった。ぼくはぼくでこの時代の気分から不良じみた女の子にちょっとした憧れのようなものもあって、美人ではないが時折笑うと愛らしさをのぞかせる彼女を特に好きではなかったが、好感以上のものは抱いていた。
M子はほとんど授業中も居眠りしていて勉強などやる素振りも見せなかったが、中二秋という微妙な時期の空気がそうしたタイプの人間にもなんらかの変化を強要したのだろう、たまにぼくに勉強をきいてくるようなこともあって、それは分数の割り算だとか、中二の試験ではとても出そうもないレベルのものではあったが、周囲が進路でそわそわしだして陽気な反面さみしがりやの彼女も彼女なりに勉強してみたい気があったのではないか。
そうこうしているうちに中二十月の中間試験が始まり、三日間のあいだ、ぼくも含めてみながみなシコシコ問題を解いていたわけだが、問題と問題の間にたまにM子の方をのぞくと、やはり付け焼刃の学習では太刀打ちできなかったようだ。数学や英語の試験の前にそれとなく出そうな問題の答えを教えてやったりもしたが、そのような知恵を実際に解答に導くにもなんらかの前提知識は必要で、まったく役に立たなかった。
最後の科目は理科だった。休み時間中、役にも立たないアドバイスをしようとするぼくにM子が小声で言った。
「解答、見せてくれないかなあ」
M子がそう言ったのは脅しでも哀願でもなく、たんにぼやいてそう言ったかのようだった。受け入れられないことはわかりつつ、なんとなく口にしたまでのような。
しかし、ぼくは間髪入れずに首を縦に振った。
(続く)