今日(18日)発売の「新潮45」12月号で三国志について書きました。機会あればご一読ください。この雑誌ではひたすら中国古典について書かせてもらっております。
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取材後
滞在中、空いた時間にノートを見直すようにしている。そこから雑感が芽生えることがあり、それを赤字で記しておく。赤字の雑感がこのブログの「北京日記」での感想になっている場合が多いようである。ただし、ノートを見て「北京日記」を書いているわけではなく、わざわざノートを見直して赤字で記すことが記憶を鮮明にさせているのだと思う。こうした雑感がその時々の仮説の設定やその修正であり、書く時の1つの核となりうるものである。
そのこととは別に、雑誌で取り上げたいテーマが浮かんできたら、そのテーマでの取材、すなわちコメント取りや統計、ニュースなどのリサーチも並行して始める。新聞記者や雑誌の専属ライターの取材はこの時点から始まるのが普通のようだ。ぼくのようなフリーのルポライターの場合はそれまでの過程の方がはるかに長く、ぼくはこちらの方を重視している。だが、一般に取材とはその後の過程を指す。
初めて会う人も再会の人もいるが、取材をしていく中で新たな人やグループを紹介されることが多い。次に述べる探す行為を通じてその機会は格段に増える。自分の興味に従って積極的に関わりを作っていこうと心がけている。このことは仕事と言うよりは愉しみと言う方が近い。
会いたい対象を探し出すコツは「探す」ことである。このことは情報というものが与えられるものだと思う人には難しいことではある。探すこととは、自分がやりたいこと、関心のあるものを明確に理解したうえで、そのことを積極的に語ることである。とは言え、自分がやりたいこと、関心のあるものなど、ある程度取り掛からなければ見えてこないものであり、最初の模索の段階においては自分に素直になった上で、その時における最大限の仮説を自覚し、語っていく、そうしていくうちにベクトルが定まっていく。この最初の段階で世論や周囲に合わせてしまうと、自分との距離が生じる。
帰りの空港や飛行機の中で可能な限りノートを見直す。ぼくにとっては大切なことで、なぜならぼくは原稿を書く際にノートをほとんど見ずにとりあえず書いてしまうからである。このことは後でまた述べる。
その他
ルポライターやカメラマン、テレビディレクターのような職種の人はいつどこででも寝ることができ、何でも食べることができ、長時間の移動もへっちゃらであるようなタフさが求められる。ところが、ぼくはそうしたタフさが全くなく、そのことがあらかじめ仕事を決めずに取材を始める理由にもなっている。どういうふうにないかと言えば、
(1)大の飛行機嫌い(特に航空会社と機種と座席に左右される)。
(2)4時間以上の無喫煙に耐えられない。
(3)寝台車で寝ることが大の苦手(鉄道ファンの悲しい性。次の停車駅が無性に見たくなって興奮が抑えられない)。
(4)大のゴキブリ・ネズミ嫌い(都会限定。農村はどうでもいい。農村でのゴキブリ・ネズミは比較的大丈夫)。
(5)基本的にアジアの料理よりも洋食が好き。ビーフン、キムチ、香菜、薄味の料理、酸っぱい料理、朝以外の果物など天敵も数多い。
(6)トイレにうるさい。トルコ・インド・タイ式を除く水洗しゃがみ便所を使うことに恐怖感を持っており、トイレを想定して前日あたりから食が進まなくなる(どぼん式は問題ない。つまり、昔の中国の公衆トイレは平気だったが、最近の中途半端に近代化されたやつが使えない。また、日本でも使えるトイレは限られてくる)。
(7)風呂がないと耐えられない上に、使ったことのないシャワー・風呂ではお湯を飲んでみないと浴びることができない。飲むと有害な液体に肌が触れることをこわがる習性がある。この習慣のためにネパールでは悪性の下痢に罹ったことがある。中国では今のところ問題なし。
(8)極度の閉所恐怖症。ホテルのようなワンルームの空間でもなかなか寝ることができない。
以上のような性質があるために、ぼくはけっしてこの仕事に向いた人間ではない。それでもこの仕事をするのは出会いと再会が好きだからで、以上の嫌なことを忘れさせるだけの魅力がある。大切なことは向くか向かないかではなく、好きなことがあるかないかだと思う。
昔からぼくは海外でほとんどホテルに泊まることがなく、気の合った友人の家に滞在するのが普通であるから上述のダメな問題はある程度クリアされている。